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壷式ラーメン

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 生温い陽気になった頃、僕は二階建てのアパートをでることになった。

 昭和初期の趣を残すそのアパートの部屋は狭くもなく広くもなく、たてつけもしっかりしていて、床がきしんで隣部屋に迷惑をかけやしないかと必要以上に心配する必要もなかった。

 夕方には商店街を抜けて、買い物袋を提げた勤め終わりの人々がアパートの前の通りをのんびりとゆきかった。

 僕は勤め先の持ち場を片付けて、ついでのその職からも引きあげた帰り、夕暮れの町並みをアパート目指してあるいた。

 送迎会のようなものはひらかれなかった。

 そうだろう。僕は仕事に来ているだけ。最初に確保したそれだけの立ち位置から一歩も動く努力をしなかった。

 それだというのに、一言の誘いもなかったことにどこかで拗ねている。憤慨している。それは寂しいという感情へ帰結する。

 だが、いっそ清々しいのは、職と共に決めたあのアパートからも自分は出て行く。

 すべてをここに置いて、次の新しい街へ。 

 

 けれどもあのアパートの暮らしは悪くはなかった。

 特別親しい隣人もいなかったが、家賃を納めているからということでもなく無言のうちに居場所を許されていた空気だった。

 同じような年頃の労働者階級の気安さがあった。きっとそれほどこの地には留まらない。どこかで共有した心地良い距離感がある。

 

 アパートに近づくと、棟違いの住人、黒人ふたりが声をかけてきた。

 僕の引越しを惜しんで優しい言葉をいくつかかけてくれた。彼らはこれから仕事へ行くようで手を振って商店街のほうへ大またにゆったりと歩いていった。時間には余裕を持って出勤する律儀な男たちだった。

 その時間の余裕を僕はいつも持ち合わせていない。生まれたときからそうだったような気がするくらい。いつも余裕がない。だから誰かとゆっくり立ち話をすることもできない。だから送迎会も開かれない。

 アパートに帰ると、お姉さんたちが僕をまた通りへ引き戻した。

 お別れ会をするという。

 船頭は真矢みきだった。清水ミチコが僕の腕を取って、通りを少し外れた露天へ連れて行く。

 僕はそれほど交友もなかったけれど、同じアパートに住む住人が別れを惜しんでくれることが嬉しかった。職場で毎日関わっていた仕事仲間ではなく、朝夕かるく挨拶を交わすだけの隣人が見送ってくれるとは思わなかった。

 連れられた店は、黒い玉砂利の日本庭園にいくつかの露天がならんでいた。

 打ち水がされたばかりのようで、夕暮れに涼むには良い場所だ。松や竹の緑も深く瑞々しい。

 大きな入り口の置石から奥へ進むと、藤棚のしたにテーブルがあって、その横にはインドで作られた雰囲気のアルミニウムの重量感がある樽のようなものがある。胸の高さまではある。

 それは細かい意匠が施された寸胴な花瓶のようなフォルム。天辺から白濁したスープがちろちろ沸いている。そこからスロープで、樽の中腹あたりまで来て、そこにある小さな噴水つながっていた。

 真矢ミキと清水ミチコは躊躇することなく、露天の若いお兄ちゃんから受け取った丼でそのスープをすくった。それからまた兄ちゃんのほうへ行って、チャーシューやメンマ、薬味を入れてもらっているようだった。

 驚く速さで席に座って食べ始める真矢ミキたちに驚かされて、僕は空の丼をもてあましたまま、とりあえず樽のすぐ隣の席にすわる。

 「はやくあんたもよそって食べなさい?」

 真矢ミキに促されて、僕はたどたどしく樽の中腹にある小さな噴水からスープを丼に取る。その仕組みは皆目検討がつかない。噴水のようにわきあがるスープは線香花火を逆さにしたような可憐なちいさな雫が飛び上がっている具合なのだが、気付くと丼にスープはいっぱいなのである。さらに麺はお兄ちゃんのところでもらうのか?とまごつく暇もなく、小さな湧き出し口から麺がごっそり浮き上がった。僕はすかさずそれを箸で掬った。具は?具は麺に絡んで入っていた。メンマやチャーシュー各種が充実していた。

 ところでこれはとんこつラーメンに違いない。くっせいラーメンに違いない。

 真矢ミキたちはすこぶる美味そうに食べている。清水ミチコはなんだか愉快な会話を繰り出してくる。彼女たちがすすりあげているラーメンは美味そうだ。

 僕ははたしてこのラーメン暖かいのか?どう考えても温そうだ。さてどうしたものか。思案の間隙を許さず、

 俺は目覚めた。

 今朝はこんな夢をみた。